もうひとつの
労働、としての眠り
1日のおよそ3分の1を占める時間。それでも私たちは、眠りについて驚くほど多くを知らない。今月号は、文学と映画と科学のあいだを行き来しながら、夜と朝のあいだの、静かで豊かな領域を旅する。
“To sleep, perchance to dream — ay, there's the rub.”
私たちが「眠る」と呼ぶ行為の中で、脳と身体は驚くほど活発に働いている。入眠から数分でノンレム睡眠の浅い段階へと滑り込み、やがて深い徐波睡眠の谷へと下りていく。そしてレム睡眠の浅瀬で、私たちは夢を見る。
この4つの段階が、約90分の周期で4回から6回、夜のあいだに繰り返される。深い眠りは前半に、夢を見るレム睡眠は後半に厚く配置される。眠りの建築は、ただ時間が経過するだけでは完成しない、と研究者たちは言う。Walker, Cirelli, Tononi の研究は、それぞれの段階に異なる仕事が割り当てられていることを示してきた。
美といふものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされた我々の祖先は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添ふやうに陰翳を利用するに至った。
暗闇は設備ではなく、文化として日本の寝室に伝わってきた。睡眠学が「室温16〜19℃、完全な暗闇」と数字で言うことを、谷崎は1933年に「陰翳の美」と書いていた。良い寝室は、何を点けるかではなく、何を消すか、で決まる。
一杯のカモミール
光、温度、食事、会話。眠りに向かう準備は、目に見えない多くの細い糸でできている。専門家が口を揃えて推奨するのは、就寝の90分前から照明を落とすこと、画面を遠ざけること、そして体の芯をわずかに温めてから冷ますこと。
京都で布団を仕立てる職人、村上佐和子さんは言う。「眠るための支度は、お茶を点てるのと似ています。1つひとつの所作に、意味がある」。Haghayegh の2019年のメタ解析が示したのも、就寝1〜2時間前の温浴が入眠潜時を平均8.6分短縮するという、ほとんど儀式的な結果だった。
時差で眠れないBill MurrayがPark Hyatt 52階のバーに降りていく。窓の外には眠らない東京、グラスのなかには眠れない自分。コッポラはこの場面で、ジェットラグを「都市と身体のすれ違い」として描いた。睡眠リズムが世界線をまたぐと、身体は数日かけて、新しい夜と朝の場所を探さなければならない。Hirshkowitzらの「7〜9時間」という数字も、リズムを失えば、ただの数字に戻る。
理想的な寝室の温度は16〜19℃のあいだ、湿度は50%前後。光は完全な暗闇に近いほどよく、音は40 dBを超えてはならない。これらの数字は、各国の睡眠学会が共通して推奨する数値である。
しかし数字よりも大切なのは、その部屋に何を置かないか、ということかもしれない。仕事の道具、未読の本、明日の予定。それらを寝室から退去させることで、眠りはようやく、自分の場所を見つける。
細い障子越しに、紙が呼吸する音が聞こえる。枕は蕎麦殻、布団は薄く、足袋の足音が廊下を遠ざかる。寝室というのは、何を置くかではなく、何を置かないか、で決まる、ということを、こういう場所で体が思い出す。
レム睡眠中、脳は感情の記憶を「文脈」から切り離し、扱いやすい形に変えていく。つまり夢とは、心の翻訳作業の現場なのだ。激しい感情を伴った出来事が、朝には少しだけ穏やかになっていることがあるのは、このためだ。
夢を覚えていなくても構わない、と研究者は付け加える。翻訳が終わっていれば、それで十分なのだ。Carl Jung が「夢は無意識からの手紙」と呼んだのは、1世紀近くも前のことだった。
“こんな夢を見た。腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。”
眠りは、もうひとつの労働である。労働だとすれば、私たちはそれをもっと丁寧に設計してよい。シェイクスピアが厄介なものと呼び、谷崎が陰翳と書き、漱石が夢に託したこの時間を、この号は数字とともに歩き直した。次の眠りまでに、何を1つだけ変えるか。それを決めることが、明日の自分への、最も静かな投資になる。
- 01Walker MP. Why We Sleep (2017)
- 02Hirshkowitz M et al. 2015, Sleep Health · NSF推奨↗
- 03Windred DP et al. 2024, Sleep · 規則性 n=88,975↗
- 04Van Dongen HPA et al. 2003, Sleep · 慢性制限↗
- 05Haghayegh S et al. 2019, Sleep Med Rev · 温浴↗
- 06Walker MP & Stickgold R 2002, Neuron · REMと感情記憶↗
- 07Cirelli C & Tononi G 2014, Neuron · 睡眠と可塑性↗