寝溜めの、
戻らない部分。それは静かに残る。
週末にたっぷり眠ると、月曜の朝はたしかに軽い。けれど、軽さと、戻ることは別のことだ。削られた何かは、ベッドの上で待っていてはくれない。眠りには、取り戻せる部分と、そうでない部分がある。
Van Dongen(2003, Sleep)の古典的な実験は、睡眠時間を1晩6時間に2週間制限すると、注意・反応速度・作業記憶が、徹夜1晩に近い水準まで落ちることを示した。被験者自身は「慣れた」と感じる。けれど課題成績は、底に向かって沈み続けていた。
主観と客観のずれは、慢性的な睡眠不足のもっとも厄介な性格である。眠れていないという感覚は、ある時点から消える。それでも認知は静かに損なわれていく。負債が見えなくなることと、返ったこととは違う。
“長いあいだ、私は早くから寝たものだ。”
Depner(2019, Current Biology)は、平日に睡眠を制限したのち、週末に自由に眠らせる介入を比較した。週末の延長睡眠は、インスリン感受性の低下や夜食の増加を打ち消すには至らず、むしろ代謝指標は悪化していた。「取り戻したつもり」は、データの上では取り戻せていない。
短時間睡眠の繰り返しが代謝に響くことは、Kitamura(2016, Sci Rep)など複数の研究で示されてきた。週末の長眠は気分には効く。けれど、月曜から金曜にかけて積もったものを清算する装置ではない、ということだ。
当直明けの廊下は、いつもより少し白い。蛍光灯のせいではない。判断の濃度が薄まっていることを、身体のほうが先に知っている。眠れなかった夜の翌朝、声をかけてくる人の名前が、半秒だけ遅れて出てくる。その半秒は、休日に眠っても返ってこない。
慢性的な制限を避ける唯一の方法は、平日に十分眠ることだ。Walkerが繰り返し書いてきたとおり、睡眠は事後の補填では再構築しきれない領域を持つ。記憶の固定化、感情の調整、清掃のような働き。それらは、その夜のうちに行われる。
仕事の量を減らせない夜は、誰にでもある。それでも、週に何度そういう夜を許すかは選べる。月曜から木曜のうち3日は守る。先に決めておけば、夜の判断は少なくなる。守るべきは、長さではなく頻度のほうかもしれない。
プルーストは『長いあいだ、私は早くから寝たものだ』と書き始めた。夜を整えていた人にだけ、過去は呼べば応える形で残る。寝溜めで返せない部分があるという事実は、絶望ではなく、設計への招待である。守るべき3日を、まず先に決める。